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近世宇土城址


近世宇土城址


 近世宇土城址は、小西行長が築城した当時を感じることが出来る遺構が、ほとんど残っていない城であり、そのことこそがこの城の歴史を物語っています。

近世宇土城址10 近世宇土城址4 近世宇土城址5 近世宇土城址6 近世宇土城址7
 本丸の入口の案内図(写真2)で示されている、木々が囲む広場の片隅にトップ写真の「小西行長公銅像」が建っています(赤マル内)。これは、小西行長公没後380年を記念して建てられた銅像であり、訪れた日には、像の前の広場でゲートボールを楽しむ高齢者を見守っていました。写真3は広場入口の階段を上ったあたりで撮影したものです。

近世宇土城址8 この辺り一帯は、昭和55年から発掘調査により、約2mの盛り土となっていることが判明しています。「肥後宇土軍記」に関が原の合戦後に領主となった清正が、宇土城を隠居所にするため普請した記述があることから、現在の石垣は加藤清正が積ませたものと考えられます。積み方は熊本城にも使われている打ち込みハギ(写真7)。地上の高さと同等程の深さの石垣が埋まっているのだそうです。

 城を大改修した清正もこちらで余生を楽しむ前に没し、一国一城令により廃城。さらに、天草・島原の乱後、再び徹底的に城は壊されたのです。

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近世宇土城址2【data】
熊本県宇土市古城町‎
08/10/下旬:訪
◆◇◆地図はこちらから◆◇◆

※宇土市教育委員会による、昭和55年からの宇土城跡(城山) 宇土市埋蔵文化財調査報告書は、一部の古書店などでも、ネット販売されているようです。

 佐々成政の失脚により、加藤清正と領地を分ける形で、天正16(1588)年 小西行長は南半分の、宇土・益城・八代を拝領(天草は天草5人衆・球磨は相良氏が統治)。中世宇土城(西岡台)に入城し、翌年にはこの近世城郭の築城を始めます。中世宇土城とともに観ると鶴が翼を広げているように見えるので、別名「鶴の城」とも呼ばれています。この城を居城として、領地の隈庄城(城南町)、木山城(益城町)、岩尾・愛籐寺城(矢部町/現・山都町)、麦島城(八代市)に城代を置いて、支配体制を整えていきます。

 城の着工に際し、秀吉に降伏した天草の豪族達・天草五人衆(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)へ普請夫役を行長が命じたことに反発して、天正17(1589)年 天正の天草合戦が起こりますが、清正の援軍により鎮圧(この時、清正と一騎打ちをして討ち取られた木山弾正の子横手の五郎が成長し、後に熊本城の平左衛門丸にある「首掛石」を運んだ話が残っています)され、天草は領地として組み込まれます。

 築城時、城の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸という三つの郭を外堀と内堀で取り囲む重厚な構成で本丸は高さ10数mの石垣を築き、三層の天守閣があったと伝えられています。宇土市商店会が運営している小西行長関連のサイトから、行長公400年忌につくられた「宇土城全貌想像図」のイラストを見ることができます(文末【data】参照)。

築城とともに、町並の整備も進めています。博多町割奉行だった経験を活かし、碁盤の目のように南北に4つの幹線、東西に横丁を配し、また、外に向かって流れていた船場川の流れを変えて、外堀と運河の役目を担わせています。現在、例えば宇土細川藩の轟泉水道のような、行長の遺構という形のものを宇土の町で見ることは難しいようですが、この町の基盤は行長によって作られています。清正との武功派VS文治派の構図で語られてしまうことも多く、肥後の中でいささか実際よりも分が悪い感がある行長ですが、近年再評価もされています。

 文禄・慶長の役で、外交という武器でも時代と戦った行長は、秀吉の死後、関が原の合戦に際し弟・行景に宇土城を任せ、西軍として戦地に赴きました。一方、東軍の清正は九州の守りとして熊本に残っていました。豊後杵築の細川忠興の城が大友義統の攻撃にあったため、援軍として出陣しましたが、途中で義統降伏の知らせを受けると引き返し、宇土城を攻めます。

結果的には、行長の死の知らせを受けた行景が家臣助命を条件に、自身は切腹し開城となったのですが、その間20日余り、海から攻めようとした梶原助兵衛率いる加藤水軍を全滅させるなど、この城の強さを清正も知ることとなります。船奉行として幾多の戦いの経験を宇土城の築城に活かし、往時、貿易の拠点として栄えていた八代を領することで潤い、海外貿易に有利なキリシタン大名として最先端の武器の購入も容易であったことに加え、行長の帰還を信じて士気高く、城内が一丸となっていたことが堅い守りとなったのでしょう。

開城後、清正は行景の遺言通り、城兵を助命、仕官希望者については召抱えたそうです。

その後は、前記のように清正が隠居所として大改修、一国一城令により廃城。さらに、天草・島原の乱後、再び徹底的に壊されました。

尚、近世宇土城の資材が熊本城の「宇土櫓」に使われたという話もありますが、現在では解体修理時の調査などから、熊本城内で創建された櫓であることが明らかになっています。

【data】
本渡歴史民俗資料館では現在、特別展 「天草五人衆の世界」が開催中です(~09/12/06(日)まで)。
http://www.city.amakusa.kumamoto.jp/cal/pub/detail.asp?c_id=3&id=1276&yy=2009&mm=8&dd=9&mst=0
本渡歴史民俗資料館
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/link/museum/south/hondo_02.html

宇土市商店会が小西行長関連のサイトを運営されています。
http://youyoucard.web.fc2.com/yukinaga.htm
往時の宇土城想像図のイラストも見られます。
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