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中世宇土城址


中世宇土城址


 宇土市には、小西行長が築いた近世宇土城(城山)と、この中世宇土城(西岡台)の2つの宇土城址が残っています。
中世宇土城址2 「西岡台」と呼ばれる標高39mの小高い丘陵のほぼ全域、東西700m、南北350mの規模をもつ中世宇土城は、昭和54年に国指定史跡となっていることもあり、トップ写真のように、城址全体の図面や、発掘時の航空写真や出土品、説明文、日本史と対比した年表などが添えられており、要所々に看板や説明板で遺構の様子を指していました。出土品の写真の中には、備前焼や、中国で焼かれた青磁や白磁、鉄砲の玉やタイ製陶磁器なども見られ、交易が行なわれていたことがわかります。

中世宇土城7


 「竪堀跡」と平行につくられた遊歩道を進むと、主郭の「千畳敷」を囲む堀跡があります。写真のベージュの部分はセメントのようなもので固められています。こうした保存方法がどうして選択されたのかは謎ですが・・・。

中世宇土城址3 虎口から内部に入る前に周りを一周してみることに。ほどなく内堀跡の内部に、野外展示された石塔が見られました。これは破城の儀式として、意図的に五輪塔・宝篋印塔などを投げ込んだものといわれ、九州では初めて、全国的にも珍しい出土なのだそうです。九州の出では無いキリシタン大名の行長が、新しい城を築いて移るにあたり、供養塔や墓石であるこれら石塔を投棄したということでしょうか。

中世宇土城8やがて、平場の発掘調査で発見され、整備で平面的に表示された「外堀跡」の部分が見えてきました(左側のベージュの部分)。千畳敷を守りをより強固にするためと考えられています。

中世宇土城址4 この「外堀跡」に沿って行くと「宇土城跡」の石碑がありました。先の案内図からすると、往時は大手からこちらが通路となります。麓やこの南側斜面に、領主や家臣、民衆が暮らしていたと考えられています。石碑の後方に「三城」の部分があるので、そちらもいってみることに。

中世宇土城址5 中世宇土城址6
曲輪内に建物跡などの遺構があるようですが、下草に覆われていて、進めないし、登れないしで、引き返すことに。少し戻ったところで「千畳敷」の後側を撮影。ここから腰曲輪の様子がよく見えます。

中世宇土城9「千畳敷」を囲む堀跡から「三城」方向も撮影した後、「竪堀跡」に架かった小さな橋を渡って北側へ。

中世宇土城址10 この辺りの堀底は、デコボコとしていて、「小間割」と呼ばれる工区分けの跡、もしくは堀の掘削行程の過程を示し、工事が中断されたために残ったと考えられています。


中世宇土城址11 中世宇土城址12
 周りを一周したところで、虎口を通って「千畳敷」に入ります。裏側からも撮影。堅い守りを感じるつくりになっています。
中世宇土城址13 中世宇土城址14
発掘調査により、柱穴が多数確認され、その様子から幾度か建て替えも行なわれたようです。その中で16世紀後半頃の同時期に存在した16号・17号の柱跡と、19号が復元されていました。

この19号建物は、素掘りの柱穴に柱を据え付けた掘立柱建物で、瓦の出土が無いことから、板葺きか、萱葺きの屋根だったようです。内部の様子も撮影しています。

中世宇土城址15手前が16号、奥が17号になります。


中世宇土城址16周りの樹木が茂っているので、「千畳敷」から、開けた眺めは望めませんでしたが、せっかくなので堀のセメント^-^;ゞも入れて撮影してみました。

尚、この城造りの大規模工事で、建物跡などは無くなっていますが、4世紀頃・古墳時代前期に「千畳敷」には豪族の住まい「首長居館」があり、壕から土師器の壺・甕・高つきなどが出土しており、また案内図の左端にあるように、縄文時代の西岡台貝塚も発掘されています。

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【data】
熊本県宇土市神馬町
09/07/12:訪
◆◇◆地図はこちらから◆◇◆
※行かれる際は「宇土斎場」(熊本県宇土市神馬町349-1)が目印になると思います。この前の道を進むと十字路に、左が近世宇土城/右が中世宇土城址の表示板がありますのでそれに従うと駐車場に着きます。
中世宇土城址
http://www.city.uto.kumamoto.jp/bunka/history/bunkazai/05shiro.html


 中世宇土城は永承3(1048)年に菊池一族により築かれたとされています。
一族から地名を取って宇土氏と名乗り、やがて、元徳2(1330)年 宇土三郎高俊が城主となります。高俊は南北朝時代の九州で、征西将軍として派遣された後醍醐天皇の皇子・懐良親王を宇土の津(港)に出迎え、南朝方として戦いましたが、明徳元/元中7(1390)年 九州探題に任じられた今川了俊により、宇土城を攻め落とされてしまいます。

やがて、宇土忠豊の養子となった菊池家19代目当主・菊池持朝の子 為光は、甥の菊池重朝の代に菊池氏の勢威が衰え始めると、相良為続と結び戦いますが敗れ、宇土城から敗退。翌年に城を奪還します。文亀元(1501)年 菊池の隈府城を攻略し、念願の肥後守護職を手に入れます。しかし、守護職奪回を願う重朝の子・菊池能運は文亀3(1503)年 有馬氏や相良長毎らと兵をあげ為光を破り、宇土氏は断絶します。

その後、文亀4(1504)年 宇土城に入ったのは、相良長毎に八代を追われた名和顕忠(能運の斡旋があったという話も)。名和氏は宇土城を本拠としながらも、八代奪回のために相良氏と豊福城(現宇城市松橋町)の奪い合いを繰り返しながら、能運の死後混乱の後、肥後守護職についた大友氏に宇土城を攻められ、耳川の戦い(天正6(1578)年)で、大友宗麟を破って宇土に侵攻した島津氏の配下になり、天正15(1587)年 豊臣秀吉による九州平定を迎えました。

秀吉に降伏した名和顕孝は城を明け渡し上洛。宇土城は肥後国衆一揆で失脚した佐々成政に代わり、小西行長が入城。新たな近世城郭を築城し、この中世宇土城は廃城となりました。
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