FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

広沢寺


 名護屋城の前身、垣添城を居城とした名護屋越前守経述には美人の誉れ高い二十歳になる広子という妹がおり、秀吉の側室として広沢の局と名を改めてこの上山里丸に迎えられたのだそうです。その広沢の局が眼病を患い、治癒のお礼に仏像を送ったことが広沢寺の起こりと伝えられています。
広沢寺
つまりこの周辺も、上山里丸に含まれています。ちなみに写真の階段は曽呂利新左衛門が設計したと伝えられています。
広沢寺2 広沢寺3
広沢寺4その階段を上っていくと石垣の折れが迎えてくれます。3度の折れの後、振り返って石垣と石段を撮影。

「山里丸 太閤居館跡」の説明板を通り、大正に入ってから改築されたという本堂へ。
お参りの後、彫刻の見事な様子を拝見。こちらの左右の柱の上にある飾りは、よくある獅子ではなく、花が乗ったハスの葉のようです。
広沢寺5 広沢寺6

広沢寺7 境内には加藤清正が大陸から持ち帰り、秀吉が植えたとされる国の天然記念物「大蘇鉄」が柵の向こうに見えます。

広沢寺8 階段を下りた周辺も、石垣が残っています。



 波多三河守親の改易による、波多氏やその家臣達の姿を見聞きしていたであろう広沢の局は、山里丸で淀殿や松の丸殿らの様子を感じながら、太閤秀吉にどんな思いを抱いていたのでしょう。その秀吉は、秀頼が生まれた8月に大阪に戻って以後、名護屋城に戻ることはなく、亡くなった後その死はしばらく伏せられたこともあり、彼女の元に直接の知らせが届くこともあったのかどうか・・・。

 秀吉の死後、広沢の局は仏門に入り64歳で生涯を閉じるまで、秀吉と兄夫婦、文禄・慶長の役の戦没者の菩提を弔ったそうです。本堂横には秀吉の短刀と分髪を納めた遺髪塚があり、局自身の墓といわれる五輪塔も残っています。

関が原の戦いや大坂の陣での淀殿と秀頼の最期をこの静かな寺で伝え聞きながら、若くして仏門へと入ったその胸にはどんな想いが去来していたのでしょう。

にほんブログ村 旅行ブログへ fc2ランク←ひとポチッが次に繋がります。
blogram投票ボタン
【data】
佐賀県唐津市鎮西町
2009/05/06訪
◆◇◆地図はこちらから◆◇◆

波多氏改易はこちらに詳しく

関連記事

tag : 波多氏 曽呂利新左衛門

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カテゴリ
文字サイズ拡大はこちら
◆記事内の写真を
 クリックすると拡大
します
灰緑色文字リンクしてます
◆便利な見方◆
1.下のindex ↓ をクリック
2.開いたページの各項目
 をクリック
3.県別の色分けから
 お目当てをクリック
automatic translation
プロフィール

Nov momiji

Author:Nov momiji

熊本・観光文化検定1級取得
わかりやすい旅の案内を
していきたいです。

お絵描き日記」も宜しくです。

最新記事
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

08月 | 2018年09月 | 10月
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -


QRコード
QRコード
リンク


ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

メールフォーム
こちらから連絡は出来ますがサイトに表示されるわけではありません

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示
FC2ブックマーク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。