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壱岐を廻る ―13― 亀丘城址(別名:亀尾城)


亀丘城址
 「亀丘城址」とある石柱横の説明板によると、勝本城址でも紹介した『壱岐名勝図誌』(文久元/1861年)に城の規模「本丸 東西十五間(約25m)、南北十二間(約22m)、二の丸よりの高さ凡そ五間(約9m)程。二の丸(現在地) 東西三十六間(約65m)、南北十七間余(約31m)。三の丸 東西五十六間(約102m)、南北二十二間(約40m)あるいは十四間(約25m)」と記されています。城名は二の丸にあった亀石にちなんで名付けられたといいますが、その石は現在ありません。

亀丘城址2 亀丘城址3 亀丘城址4
駐車場のある辺りが二ノ丸。舗装された遊歩道に沿って坂を上がって行きます。遊歩道はいくつか枝分かれをしながら、本丸へと上がって行きます。郷ノ浦の港も見えます。

亀丘城址5
本丸へと上がると中心に碑と円形の花壇のような盛り上がりが・・・。碑の文字をみると、どなたか地域に貢献された方の頌徳碑のようですが詳しいことは分かりませんでした。

一国一城令もあり、城の姿は公園化した印象もありますが、古くから行政の中心地だったことから、現在もこの周りには官公施設が集まっています。

北側に、石垣が一部残っているようですが見逃してしまいました。。。

※壱岐の官公街から上り坂が延びています。交差点に案内板もあるのですが、小さいので分かりにくいかも。「壱岐市立郷ノ浦幼稚園」を見下ろす場所に駐車場があります。
【data】
長崎県壱岐市郷ノ浦町
09/05/05:訪
◆◇◆地図はこちらから◆◇◆
亀丘城址
http://www.iki-brand.jp/info.php?bid=BA000079&key=亀丘城&page_num=1
※『壱岐名勝図誌』は、九州大学デジタルアーカイブにてご覧になれます。


 平安時代から、ここには城代役所が置かれていたそうですが、元寇後、永仁2(1294)年に肥前国上松浦波多郷(現:佐賀県唐津市北波多)の岸嶽(岳)城主・波多宗無が築城したと伝えられています。

この波多氏の末裔が、唐津城下の時に触れている改易された波多三河守親(ちかし)になります。

 波多氏は平家物語にも登場する松浦党の一員で、平安末期に嵯峨源氏で摂津渡辺氏の一族、松浦郡宇野の御厨検校・検非違使に下向した松浦党の祖・源久(みなもとひさし)の次男・持(たもつ)が波多郷を与えられて波多氏を名乗ったのがその始まりとされています(一字名は嵯峨源氏の特徴)。

 波多宗無に関する資料はないようで、第3代の波多勇か第4代の明ではないかといわれています。

文明4(1472)年に下野守波多泰(波多家12代・・・波多家系図は欠けている代があったりと、継承はあまり明らかではないようですが)が、それまで分割統治していた、松浦党の志佐(しさ)・佐志(さし)・呼子・鴨打(かもうち)・塩津留(しおづる)の五氏を急襲、壱岐島全島を領します。亀丘城を修築、統治を行ないました。港を持たなかった波多氏が海外貿易の利を求めてのことです。

その後、14代の盛(さかう)が嗣子のないまま天文11(1542)年に歿すると後継者争いが起こり、家老側により城代になった盛の甥・波多源五郎隆が、盛の奥方の真芳側で、娘の次男の藤堂丸を世継ぎとしたい代官六人衆に追われ、郷ノ浦の鵜野辺海岸で自決します。こうして波多氏を継いだ藤堂丸が、後の波多三河守親なのです。



 お家騒動は収まることなく、翌年には亀丘城の代官を継いだ弟の波多重も六人衆に討たれ、家老側の中心、日高資(たすく)は毒殺されます。日高資の子・甲斐守喜(このむ)は岸嶽城を攻め、城をのがれた真芳と藤堂丸は草野氏の元に身を寄せます。甲斐守喜はさらに壱岐に渡り代官六人衆を討ち、代わりに波多隆の弟の政を置き、岸嶽城に戻ります。

しかし5年後、時を窺っていた真芳と藤堂丸は佐賀の龍造寺氏や島原の有馬氏の助けを借り岸嶽城を奪還、甲斐守喜は壱岐に逃げ、自身が置いた波多隆を、弟の日高信助と共に攻め落とし、亀丘城に落ち着きます。

岸嶽城に戻った藤堂丸は名を波多親と改め、甲斐守喜を討つために壱岐を攻めます。
日高甲斐守喜は娘を人質として松浦隆信に差し出し、壱岐の領地の提供や、兄弟が家来として従うことなどを約束し、協力を取り付けます。

親は龍造寺氏と対馬の宗氏を頼りますが、策により敗北。壱岐の統治を断念します。

 以降、亀丘城には城代などが置かれ、約300年間平戸藩の領土として治められ、廃藩置県で現在は長崎県になっています。



 波多三河守親はその後、龍造寺氏の指揮下に属しながらも上松浦党の旗頭として、唐津、東松浦郡を支配。やがて、天正15(1587)年、秀吉の島津征伐を迎えます。この時秀吉の出兵命令に兵を出さず、天正20(1592)に京都を出陣した秀吉を博多で出迎える時間に遅れ、文禄の役で鍋島軍配下であるのに、別行動をしたり卑怯があったと他の武将らが報告するに至り、秀吉は帰りの船上で釈明も許さずに改易を言い渡し、黒田長政に預けることとしました。

家臣・名護屋経述の所領である名護屋を大陸侵攻の拠点とされ、みずから朝鮮に出陣、率いた兵も多くを失い、九死に一生を得て帰った領地が見える船上で、お家取り潰し・領地没収を伝えられた三河守親は、もはや名護屋に船をつなぐことも許されませんでした。

宣教師ルイス・フロイスは「日本史」の中で、波多氏の領地と俸祿の没収の口実を探していた秀吉が密告を受け、直ちに処分を行なった旨を記しています。平安末期から約500年続いた水軍・上松浦党も、戦国の世を泳ぎきるのは難しかったのでしょうか。

尚、日高甲斐守喜は松浦隆信の下で壱岐より出陣、朝鮮で戦死しています。

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【data】
波多三河守親の墓は明らかでないようです。
波多隆の墓
http://www.coco-doco.net/iki/infos/rekishi/rs5.html
重山塚
http://www.iki-brand.jp/info.php?bid=BA000080&key=安国寺&page_num=1
波多重 三従士の墓
http://www.city.iki.nagasaki.jp/policy/200508/history.html
日高喜一族の墓は郷ノ浦の華光寺に改葬されています。
※ルイス・フロイス「日本史」は、中公文庫・平凡社の東洋文庫などから販売されています。

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tag : 波多氏

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